satoimo's diary

人生も折り返し地点を過ぎた。自分を大切にするためには...

ミニマリスト

ある本を読み進めると、注釈もなく当然のように出てきたフレーズ「ミニマリスト」。どこかで聞いたような、見たようなカタカナが気になり検索してみる。

 

例のごとくWikipediaによると

ミニマリストとは、

最小限の物だけを持って生活するライフスタイル

とある。

身の回りの物を厳選し、必要なものだけに囲まれて暮らす人のこと。みたいな。それについては、案外とたくさんのサイトがあり、知らなかったのは私ぐらいではないかと思うほどだった。どうやら、断捨離と似ているようではあるが、断捨離で不要なものを手放した、その先にある世界らしい。

 

図らずも、断捨離は経験済み。いや、まだまだ不十分で、未だに気が向いた時にはごみ袋を何袋も排出している。ステイホームが叫ばれる中、人並みに自粛し家の掃除に取り掛かり、今朝も何度もごみステーションを往復した。

 

なんとなく、これはここが定置だから・・と思い込んでいたものも、別にそれはそこになくとも困らないし、もっと適した置き場があることも多い。

 

例えば、いつでもメモや書き物ができるようにダイニングテーブルの上には鉛筆立てを置いていた。確かに便利でペン、ハサミ、カッター、のりなどすぐに使うことができる。しかし、それはそこがベストな定置なのだろうか?一旦、今までの自分の考えを疑う。テーブルに物を置かず、拭き掃除を楽にしたい。使用頻度を考えると、ペンケースに保管している方がよほどベストだと気付いた。

 

例えば、割れないようにとプラスチック製のコップを何個も揃え多用している。確かに割れることはなかったが、子供たちは、飲みかけのコップをそこら中に放置し、そこに置いたことを忘れ、また新しいコップを使い、かえって収拾がつかなくなっていた。コップは一人1個でいいのではないか?質の良いものを、各々専用にして大事に使うようにすれば、割れてしまうことはあるだろうが、無造作に放置されることもなければ、置き場所にも困らない。その1個しかないのだから、もっと大事に扱うようになるのではないか?

 

例えば、靴箱を開けると、サイズの合わない、表面のはがれた靴たちがある。昨年、断捨離した際に生き残ったが、明らかに今シーズンも履いていないその靴たちを整理する。いつか履くかもしれない、この靴は思い出があるからなんて捨てずにいたが、今まで履いていないから、おそらくもう履かない。ごみ袋へ。そして、靴箱に余白ができ、気分もすっきり爽快。管理も、掃除もしやすくなり、今ある靴たちを大事に履こうと思った。

 

自分勝手な思い込みに気づき、もっと自由で良いんだと開放感さえ味わえる。物を手放すと本当に大事なものが見えてくるみたいな。

 

それらの行為をキャッチーな単語にしてしまうと「断捨離」や「ミニマリスト」なのかもしれない。ただ、「私、断捨離しました」「私、ミニマリストなんです」とひとくくりにはされたくないような、されることもできないような気もする。

 

この数日のネット検索で知り得た知識として、ミニマリストは、白を基調とした何にでも応用の利くシンプルなものを好む傾向があるようだ。衣類も厳選されたもの、ベーシックなものを数着保有し、スタイリッシュに着まわしているイメージ。しかし、私は鮮やかな花柄も好きだし、綺麗な色のものに心惹かれる。この点では、ミニマリストとは言えないだろう・・・

 

こうしてPCに向かっていても、洗濯機の終了のメロディーが流れると手を止めて迷わず洗濯機に直行してしまう。揚げ物をしていても、玄関のチャイムが鳴ると手を止めて出てしまう。お客さんと話していても、電話があると中断して電話を優先してしまう。

 

「断捨離最高!」と思っていても、すべての物を手放せたわけでもない。「ミニマリスト素敵」と思っていても、花柄も好きでそこは譲れない。

 

世間が定義した〇〇という型にはまりたくない。いや、私には、はまることさえできないのかもしれない。

 

「私〇〇なんです」と言えれば、帰属意識が満たされるというか、どこか安心感を得られるのかもしれない。でも、私は「ミニマリスト」とは言い切れないし、自分なりに気持ち良い方向性を探っているにすぎない。たまたま、本で目にした「ミニマリスト」がなんとなく、今の私と類似しているだけのこと。そして、一年後も、こんな私でいるかも分からない。また違う価値観を持っているかもしれないし、それは明日訪れるかもしれない。

 

私は何者でもない。

 

それはこれからも変わらないだろう。ただ、今の心情としては、身体一つで生きていけたら良いなと思っている。