仕事の愚痴である。
自分なりに妥協点を探し、ストレスなく明日も仕事に行くための解釈を探す作業だ。
相手の言動に対して、制度に対して、対応に対して、正しくないのでは?、間違っているでしょう?と感じることは多々ある。違和感を感じたり、不当に扱われ怒りを覚えることも日常茶飯事。
もちろん、見方を変えれば、正しいことかもしれないし、大した問題ではないのかもしれないが、その時の自分は上手くやり過ごすことができずに、悶々とすることがある。
口に出してしまえば、終わりとよく言われるが、その通りだと感じる。この人、おかしいなと思っている分には、態度に表れていてとしても口に出さなければ、表立って咎められないだろう。
その日もそうだった。
「この対応はおかしいでしょう?もっとこうすべきではないですか?」と相手へ意見し、周囲へ、「ねぇ、おかしいよね?」と同意を求めたくなる心境だった。
悶々としながら、頭の中では天使と悪魔のように二人の自分の討論が始まる。
私がこうすべきと思っていることが仮に世間一般的に正しいことだとしても、相手もそう感じているとは限らない。むしろ、感じていないからこのような事態になる。
正しいことだけが正義ではない。
これって、こちらからの一方的な感情の押し付けにもなるのではないか?こちらの考えを分かってほしい、そのうえで、あなたも同意してくれるでしょう?という一種の承認欲求なのかもしれない。正しいことに囚われて、相手の立場から考えることができずに、一方的に非難してしまう。
相手に、こちらの考えを伝えたところで、受け止めてくれるわけもなく、お互いに嫌な気持ちになり、ますます関係性が悪化する。正面から言葉で正論を唱えるのではなく、もっと別の方法があるかもしれない。仮にこちらの意見通りに訂正してくれたとしても、大きなわだかまりは残るだろう。
これって、相手に期待していて、こちらの思い通りにならないから腹が立っているだけのことではないか?なんたる自己中心的な考え。50も近い大人が恥ずかしい。
もしかすると、はっきりと自分の意見を述べたほうが建設的な場合もあるかもしれない。自分を押し殺して、相手の言うとおりにする必要はないのかもしれない。意見しなければ相手も気が付かないだろう。
私は前者を選んだ。
”身の程をわきまえる”という言葉が頭に浮かぶ。相手に意見したところで、理解を得られそうにもないことは分かっており、互いに嫌な思いをするくらいなら敢えてそうしたくはない。こちらに影響がないのなら、おかしいと思っても正す必要もなく、口出しする必要なんてなく、むしろ失礼にあたるかもしれない。相手のことを尊重すべきであり、身の程をわきまえると考えると冷静になれた。
良いのか、悪いのか分からないが、少し丸くなれた気がする。