年に1回しか美容院には行かない。
言い換えれば、年に1回は美容院へ行く。
自宅でハナヘナをしており、時折前髪を切るくらだ。だが、気分転換に美容院で髪を切りたくなった。
いや、待てよ
髪を切ったとして、必ず問われる。
「わぁ、もったいないどうしたの?何かあったの?」
大抵、その時の答えを持ち合わせておらず、何に遠慮してか、相手の期待に応えようとしてか、それっぽい回答をしなければ悪いように思い、必死にそれっぽい回答を探す。「暑くなったから」「傷んだ毛先を切ったのよ」「気分転換にね」など。本当は単なる思い付きなだけなのに。
いつもより早く出勤し、誰もいない事務所で仕事に集中する。
「どうしたの?今日は早いのね。何かあった?」
例のごとく問われる。いつも同じ時間に行くことが当たり前という前提で少しでも違うことをすれば、なぜか?と尋ねられる。そこに理由はなく、なんとなくそんな気分だから。でもそんなことを言っても、相手は納得しないので、それっぽい答えを探し苦笑いすることになる。私のしていることには、理由も裏付けも何もない。ただしたいようにしているだけだ。
マスクは手作りしたものを使っている。
「すごい、作ったの?いいね」
またも、何か作った動機や理由を問われているようで返答に困る。何となく作りたいから作っただけで、誰でも作ることができるし、すごくもない。そのまま答えると、相手の期待を裏切るようで、またもそれっぽい答えを探してしまう。「型紙が手に入ったから」「ダブルガーゼが売っていたから」など。
何か変わったことがあった時や、私からすれば普通のことでも、他人からすればちょっと変わっていることなどに、なぜそうなのか?と問われているようでならない。自分と違うことやモノについては、なぜそうなのか?と知りたくなるのだろうか。そして、それへの返答をかなり面倒に感じてしまう。何かに突き動かされ意味もなくしていることの方が多いから、そこに理由はない。あるのかもしれないが意識していない。しかし、相手が満足する回答を、これもまた無意識に探して、本心ではないことを口走る。
どんなタイプの人が好き?なんて尋ねられても分からない。こんな感じというカテゴリーも持ち合わせていないし、好きになった人がタイプであり、そこに理由はなく、しいていうなら「そうだから」。
もしかすると、一つ一つの事柄に私が反応し過ぎなのかもしれない。ふんふんと笑って流してしまえばよいのかも。
かくいう私も、人に尋ねる。「どうして、そうしたの?どうして、そう思うの?」それは、相手のことをもっと知りたいから。興味があるから。
髪を切った理由を尋ねられる質問ほど面倒なことはない。面倒になることを覚悟して、来週あたり美容院へ行くことにしよう。
もしかすると、私が勝手に相手の期待する答えを出さなければと強迫観念に囚われているだけで、相手こそこちらの反応は気にしていないのかもしれない。
日々の選択も理由なく無意識にしているようだが、そこには理論があり、ただそれを自分の頭で整理して言葉にするのが面倒なので、理由はないと思いこんでいるのだろうか。
大切な人を好きな理由を探す。たくさんあるが、それは後付けのような気もする。ただ好きだから好きなのだ。理由なんてない。だって、そうだから。