ケアマネの私とオフの私の日記

書くことで気持ちの整理をしていきたい。。

戴帽式

娘の戴帽式に参加した。

 

受付で在校生からパンフレットをもらい「おめでとうございます」とあいさつされる。前日に「戴帽式・保護者・服装」で検索し、フォーマルな装いで参加するものと分かったくらいで、入学式や卒業式同様の式典との認識がなかったこともあり、改めておめでたいことなのだと認識した。

 

受付時間間もなく到着したのだが、前の方の席は満席。なるべく真ん中の通路に近い席を確保する。式典迄の1時間、読書ができる良い時間となった。

 

コロナの影響で数年ぶりの従来の形での開催となったらしい。見学の中学生の姿もある。通路の真ん中をキャンドルを持った先生が通る。体育館のカーテンが閉まり、少しの光も差し込まない。どうやら、2階の各カーテンには生徒がスタンバイし光が入らぬよう調整しているようだった。パイプオルガンの音楽が静かに響く中、名前を呼ばれた戴帽生は皆同じ間合いで、同じ所作で、舞台前の12名の先生の前でくるりと向きを変え片膝をつき、ナースキャップをつけてもらう。キャッピングというらしい。100名を超える戴帽生全員が舞台に上がり、片手に持ったキャンドルに火を移してゆく。そして、ナイチンゲール誓詞を読み上げた。その後、式辞や祝辞、謝辞と進行し、キャンドル納火、無事閉式を迎えた。

 

彼らの後姿を保護者席から眺める。ありきたりの言葉だが、皆我が子のように愛おしく思えた。大人から、なぜ看護師になろうと思ったのですか?と質問され、はっきり言語化できなくとも、皆各々の思いがあり、看護師になる!と自分で選択し、今この時を迎えている。大人は理屈を探しがちだが、彼らは自分たちで協力し合い戴帽式の厳しい練習にも耐え、ここにいる。若干、16歳の彼ら。

 

一人一人を拍手で見送りながら、どうか我々のために社会のために、君らの力を貸してほしい、その純粋無垢な思いを持ち続けてほしい。そのために、私もできることは何でも協力するから!!と1人胸を熱くしていた。とても尊い存在に思えてならなかった。

 

教室に戻ると、戴帽式実行委員が紹介された。実行委員は先輩から戴帽式の流れの指導を受け、来年は、後輩に指導し引き継ぐらしい。各委員からの挨拶の中で「私は、指導できるような立場じゃないし、指導じゃなくてアドバイスを皆受け止めてくれて、一緒に練習してくれたから、とても嬉しかったです」と、指導というワードに違和感を覚えていた私は、彼女のそのものの見方に感銘を受けた。おそらく、看護学科では指導という言葉は常用され、もしかすると専門用語なのかもしれない。素人の私からすると、指導という言葉には圧を感じていた。自分も含め素人感覚を持ち続けることの大切さにも気づかされる思いだった。

 

彼らの看護師への道は始まったばかり。国家試験に向けクラスの団結力が、クラス全員で助け合い励まし合い合格へ向けて進むことが何より重要なようだ。こんなにも多くの生徒が看護師になりたいと志してくれて、ありがたい。大事に育ててほしい。看護師である先生方も、ご自身の戴帽式を彷彿とされるようで熱く語りかけてくださる。先生にお任せすれば、彼らはきっと大丈夫だろう。君たちのために、私にもできることがあれば、何でも言ってほしい!そう教室の後ろから宣言したい思いだった。