市役所の廊下に並べられた出入り口近くの長椅子に、いかにもクレームを言いに来ました!という血気盛んな高齢男性が腰かけ、その斜め前に若い男性が膝をついて話をされていた。
私はその出入り口に向かって歩いており、彼らの近くに来ると、市役所のどの場所とも違う空気を感じた。
彼らの前でもスピードを緩めることなく一瞬で通り過ぎたが、その間のやり取りがこうだ。
高齢男性「この中で、君が一番対応が良かったからな。」
若い男性「いえいえ、とんでもございません」
推測しよう。
何かのクレームを言いに市役所窓口を訪れた高齢男性。しかし、例のごとく職員は忙しく相手にされない。ますます憤慨する男性。そこへ、おそらく社会福祉士の若い男性があてがわれ、ゆっくりと椅子に腰かけて、視線を合わせて威圧感のない距離からゆっくりと向き合い、ただひたすら高齢男性の話を聞いていた。傾聴してもらえた高齢男性は、それだけでも満足し怒りも収まり、その若い男性が気に入り怒りもどこへやら。数多い市役所職員の中で、君だけが私の話に耳を傾けてくれた。それだけでも、ここへ来た価値があったよ。
といったところだろうか。
大抵の人間は、自分は正しいと思い、自分の主張を理解してほしい、聞いてほしいと思っているのだと思う。しかし、皆が皆同じ気持ちでもなく、その時々で受け入れる側の余裕がないときもあり、つきあっていられないのも事実。特に、何を主張したいのか分からないまま感情だけを語られると、早く結論が欲しくなるもの。
その若い男性を見て、ラジオのチューニングのことを考えていた。
きっと、若い男性はチューニングを高齢男性に合わせたのだろう。そうすることで、高齢男性の言葉に素直に耳を傾けることができ、高齢男性も安堵するというもの。
相手にチューニングを合わせることで、実は自分自身がストレスなく対応できるのかもしれない。相手の常識に合わせることで、何を言いたいのか理解できそうな気もする。
昔のラジオは、確か手動でダイアルを回し赤い線を周波数に合わせて、ぴったりあった局のラジオを聞くことができた。たまには、韓国語にチューニングが合うこともあった。
その自分の中のチューニングをいかに自由に調整できるか。自分の常識に凝り固まらず、相手の周波数に合わせることができるか。結構、大事かもしれない。
皆が忙しく業務をこなす市役所の片隅で、彼らの周りだけは緩やかな時が流れ満足感に満ちていたように思う。
なんだかほっこりした。