ケアマネの私とオフの私の日記

書くことで気持ちの整理をしていきたい。。

期待

思い通りにならないときにイライラすることが多い。

他人や周りの環境に、知らず知らずに期待しすぎているのかもしれない。

 

例のアナグマ女性の支援経過の総評を記載し、台帳を上司に回覧いただく。ものの数分で台帳が返却され、3人の上司の印鑑が押されていた。直属の上司は、「支援経過なんて読まずに印鑑だけ押すんだろうね。お疲れ様の一言でもあればいいのに、こんなケースなかなかないよ。頑張っているのにね」とねぎらってくださる。

 

確かに、ケアマネの仕事は分かりづらく、支援経過が唯一の仕事の証拠ともいえる。しかし、おそらくそれら全てに目を通されることはないだろうと、最後の総評に支援開始時からの出来事をストーリー仕立てに記入したのも事実。

 

ただ、台帳を返却されたその時に、私は何も感じていなかった。

 

今までなら、こんなに支援して苦労もあったのに認めてほしい!という承認欲求の塊であったが、今回は、自分の中で完結しており、上司に認められたいとも思っていなかったのかもしれない。第一、上司に認められるために仕事をしているわけではない。分かってもらえるはずもないし、分かってもらえたところで何がどうなることでもない。自分が満足していればそれでよい。そう思っていた。

組織として捉えると、このような考えでは出世できないのかもしれないが、今の私は出世は望んでいないし、この仕事の面白さも感じてきており、恙無く現業務を続けさせていただき、毎月の給与をいただけるなんてありがたき幸せ、そう思っている。

 

そのような出来事が最近ちょくちょく起こっている。

 

例えば、陰口を言われたとしても、言った相手に抗議したところで相手の感情はコントロールできないので、ふーん、そうなんだと受け流す。

 

いつになるか分からなとダメもとで頼んでいた書類を、思いのほか早めに提出してもららい、大げさでなく感動する。ありがとう。助かる。

 

もう何も言うまいと、干渉をやめた息子が、いつも私がしていたように、隙間時間の病院の待合に読書するための本を持参した。わ、感心だね。

 

共通して言えることは、相手に何も期待していないということか。相手の気持ちや行動なんてコントロールできないし、違う人間なのだから考えも違って当たり前。相手の言葉に一喜一憂していたって、身が持たないし、それが何だっていうのか。いくら相手や環境のことを危惧したところで、どうなりようもないのだから、考えたって答えが出るはずもない。その時々に対応していけばよいのではないか。

 

自分以外のすべての事象に自分本位な期待はせず、あるがままに受け止める。唯一自分だけは、筋肉は裏切らないと同様、自分は裏切らいないとも感じている。究極の自分勝手かもしれないな。

 

でもなんだか少し心が軽くなって、人の目を気にせずに自分のペースで自分のやりたいことができるようになりつつある気がする。

 

やらないといけないこともたくさんあるが、やりたいこともたくさんあり、1日24時間では足りない今日この頃。自分でも良く分からないけれど、何だか楽しくなってきた。もっと、上手く時間を使えるようになりたい。