ケアマネの私とオフの私の日記

書くことで気持ちの整理をしていきたい。。

目力

ユマニチュードのケア技法の中で、相手の目線に合わせて目を見て意思疎通を図ると、相手も自分を認められたようで、こちらの話に耳を傾けてくれるという。

 

介護の現場では、ベテラン看護介護職になるほど、動作はスピーディーで、口では次の行為の声掛けをしているが、相手がそれを理解する間もなく実行していることも多い。何をされるかわからない恐怖心から抵抗したくもなる。

 

それは、子育てにも言えるかもしれない。

 

皿を洗いながら子供に話しかけられても、手を止めずに子供の目を見ることもなく、返事だけする。返事はしても、目線は合わせず、気持ちなんて伝わらない。

 

ほんの数秒、相手の目を見て話を聞くだけなのに。その、日々のほんの数秒を惜しいと思い、惰性で過ぎてゆくと、大事な時期を見逃してしまうかもしれない。

 

聞いているようで聞いていない。

見ているようで見ていない。

そこに一緒にいるようで心は別のところにある。

むしろ、離れている方がよほど心が通じていることもある。

 

ほんの数秒、相手のペースに合わせて目を見て向き合いコミュニケーションを図るには、自分にも余裕が必要だ。いつも、何を急いでいるのだろうか。時には立ち止まって、周りの景色を見たり、季節の匂いを感じたり、自分を意識しても良いのに。

 

レビー小体認知症が徐々に進行し、時に娘さんのことが分からなくなる母親。

飲み込みも悪く薬をひっかけてしまう。娘さんは、母親の手のひらに薬を出し、一緒に数を数えて確認し、5錠あるから5錠飲んでねと母親が薬を認識して飲み込むまで向き合うようにすると、ひっかけることはなくなったという。今までは、手のひらに薬を出しても声をかけるだけで、母親は薬の認識ができず、周りのことに気を取られ、どうしてよいかわからなかったのかもしれない。

 

各々のペースに合わせて、目を見て認識を得ながら関わることで、認知症とひとくくりにされる方々も、だいぶ生きやすくなりそうだ。認知症だから何もできなくなるわけではない。周りの関わり次第ともいえる。

 

某オカルト雑誌の表紙に「目」をレイアウトするようになってから、売り上げが伸びたらしい。

近所のごみステーションは荒れ放題であったが、「目」をレイアウトした看板を設置後、若干規律が保たれているように思う。

 

「目」は口ほどにものをいう。

 

マスクをしているため、表情は読み取りづらいが、今こそ「目力」が必要なのかもしれない。あと、ほんの少しの心の余裕も。