satoimo's diary

人生も折り返し地点を過ぎた。自分を大切にするためには...

セレモニー的な慣習

退職や移動の季節。

 

勤続19年、今までこの職場の慣習では、職員全員に声をかけ、希望者のみ(ほぼ全員になる)数百円出し合い、代表者がお花と記念品を購入、最後の出勤日終業時に退職者を囲って一言挨拶いただくというセレモニー的なことを行っていた。

 

コロナ禍も相まって、職員間の交流もなく知らない人が増える。公務員を退職され就任された施設長とも、ほとんど接点はなかった。また、久しぶりの退職者となる。

 

先輩らが事務長へセレモニー的なものをどうするか尋ねると今回は、施設の方から、「私は非常勤なので、一切そのようなことはしないでほしい」と話があったらしい。「私は立場上、何か渡そうと思いますが、されたい方は各自でされればいいのではないですか?」との返答だったらしい。

その答えが、「特に関わりもないため、意向通り何もしない。おそらく最終日もいつも通り定時に帰宅されるだろう」との結論となった。

 

最終日。

 

個々に、施設長室を訪れ品物を渡す職員もちらほら。午後、事務の女性を斜め後ろに従えて、滅多に来ることのない私共の部署に施設長が足を踏み入れられた。

 

「どうもお世話になりましたね」

 

そう一言発し、デスクを1周する施設長の後を追いかけ、女性が「施設長からです」と菓子箱から個包装のお菓子を1個ずつ職員のデスクに置いて去って行かれた。

 

あっけにとられた先輩と私は返す言葉もなく顔を見合わせた。

 

「これが公務員のやり方なのかな?何もしないでと言っておいて、お菓子を配るって、しかも自分でされるのではなく、事務の女性をお付きの人みたいに従えてさ。違和感しかないよね。」

 

 

施設長は、やはりその日も定刻に普段通りに帰宅されていた。

 

先輩らは、セレモニー的なことをしなかったことを後悔しているようだった。見送りもあいさつもなく、けじめがつかない状況に理解が追い付かないようにも感じた。各自で贈り物をするという初めてのケースも受け入れがたく、贈り物をしなかった者たちが暗に責められているような感覚もあるのだと思う。

悪しき習慣、バレンタインの際もそう。気持ちも何もないが声を掛けられ、お金を集められ、代表者がチョコレートを渡し、誰から送ったのか内訳を伝えているのか分からないが、ちゃんと集金された者、一人一人にお返しが来る。この職場に長く伝わるそんな空気。誰に責められるわけでもないが、セレモニー的なことを今まで通りにしなければという強迫観念。思い込み。みんなで、一緒に、一人だけ抜け駆けしたらだめよ、逆に気を遣うじゃない・・・と聞こえてくる。

 

お付きの女性にお菓子を配らせるその方法には違和感しかなかったが、今までの型にはめる必要もないと思う。第一、私は、施設長の退職に際し、何かしたいともお礼を言いたいとも、この日が最後の出勤日だとも頭になく、いつも通りに仕事をしていた。非情な人間かもしれない。

ただ、この日を最後に部署移動される先輩には感謝の気持ちが溢れており、同じ部署の方に相談し賛同を得て(無理やりではないと感じているが、相手が気を使って賛同せざる負えないと思っていたとしたらパワハラ認定か・・)ささやかなお別れ会をさせてもらった。相手のためでもあり、自分のためであったのかもしれない。

 

不適切にもほどがある

 

1話、1話が自分の実生活に問いかけてくる。皆各々、感じ方は違う。良かれと思っても、相手にはそうでないこともある。相手に気を使い過ぎて、無関心になる。近くなりすぎると強要につながる。一体どうすれば?どこかに正解があるのか?個人主義とは?

やりたい人はやる、やりたくない人はやらない。残業強要はいけない、でも残業をするなと働きたい人の権利を奪ってはいけない。相手がどうしたいのか?自分はどう思うのか?皆、一緒なら安心するのか?皆同じ事をすれば、それが正しいのか?皆って誰の事?

 

今まで特に意識もせずに繰り返されてきたセレモニー的なこと。それをどう感じるかは人各々。どう感じるのも自由。自由過ぎると、自分で考えることが負担になることもあるのか?自分はこれで良い!と言い切ることは案外難しいことなのか?周囲に合わせていれば楽ちんなのか?でも、その周囲も流動的なもので、入れ替わってゆくため、その時々で、正義も移ろってゆくのだろう。

 

結局、自分が周りにどう思われるのか?で行動している場合が多いような気がしてならない。自分も含めて。それが良い、悪いは分からない。そこを、自分軸に上手く変換してゆけば違和感も、ストレスも少しはなくなるように思う。