図書館で出会う本たちは
一期一会であることも多い
「孤独」について書かれた本だった
人は誰でも「孤独」を抱えているが
それを意識している者はそう多くはない
その「孤独」がぶつかりあった時に
互いに理解し合えずに
喧嘩になったり
その結果
さらなる「孤独」を感じることになる
みたいな話
その「孤独」は
本当の「孤独」と
偽りの「孤独」がある
本当の「孤独」とは本来充実したものであり
そこに寂しさはないとか
1人でランチを食べに行く
飲み会を断る
噂話に迎合しない
1人では寂しい
1人では恥ずかしい
それらすべての感情は
他者から見てそう思われているのではないか
という妄想でもある
♬1年生になった~らぁ
1年生になった~らぁ
というほのぼのとした歌に刷り込まれたイメージ
友達は多いほうが良い
に決まっている
遠足のお弁当
1人で食べることのないよう先生が気を配る
修学旅行の班分け
あふれている子が出ないような配慮
特に女性の先生は
こと女子児童や生徒に対して
何かしらのグループに所属せず
1人で過ごしていると
それが悪いこと、かわいそうなことであるかのように
心配してくださる
1人はかわいそうなのだろうか?
1人はいけないことなのだろうか?
友達は多いほうがよいのだろうか?
本人が望んでそうしているのならば
むしろ成熟の表れだと
私は感じる
もちろん
本当は皆の輪の中に入りたいのに入れないのならば
それは問題である
島国の日本人は
相手の顔色を窺い協調することで
生き延びてきたと聞く
人と違うことをしていると村八分
出る杭は打たれる
自分と全く同じことを想い
寸分狂わぬアイデンティティを持ち
同じタイミングで同じことをする相手など
いるはずもないし
どんなに親密になり例え親子だとしても
全てを理解し合えることなんてない
その「孤独」を
ほんの少しでも共有できたと感じた時に満たされるのだろうか
それは
学校のテストで良い点数をとったとき
会社で昇進したとき
自分を認めてもらったと感じた時に満たされるのだろうか
全ては
他者の目を気にして自分て作り上げた「孤独」なのではないか
筆者は「孤独の眼鏡をかけて人と接するとよい」
とも記していた
私は肩書や社会的地位に弱いところがある
医者、先生、社長、講師・・・
すぐにひれ伏してしまう
・・・
先日
数多くの肩書を持たれた講師の
スクーリングを受講した
ホワイトボードの前で語られる講師に
いつものように距離を感じ
きっと優秀ですごい方なのだろうと思っていた
自分とは違うと
しかし
ロールプレイになり講師が間近に来られた時
「孤独の眼鏡」をかけてみた
すると
その顔は目、鼻、口とついており
何ら自分と変わらないものに見えた
急に親近感が湧き
なんだ同じ人間じゃないか
そう感じた
「孤独の眼鏡」をうまく表現はできないが
日々の出来事は
自分の解釈次第でどうにでもなるということ
「孤独」を感じるのも自分
それを恥ずかしいと感じるのも自分
それを楽しむのも自分
他者にどう評されようとも自分次第
職場の飲み会のお誘いを受ける
大切なお付き合いの一つでもあり
声をかけてもらったのはありがたいが
気が進まなかったので
さくっとお断りした
噂話や陰口に対して
暗に同調するような雰囲気を感じる
正直興味もなかったので
パソコンから視線を外さずにやり過ごした
1人でいてもスマホを見たりテレビをつけるのは
他者とのつながりを求めており
本当の「孤独」ではない
何もない 何もしない 一人の時間
それが本当の「孤独」
その時間を心から楽しむことができるようになることが
「大人」の一つの要素になるような気がする