1980.5.18 韓国での出来事を私は知らなかった。
映画『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』
映画に映し出される街並みは、どこか日本と似ていた。それもまた、この出来事をよりリアルに感じさせる。それほど昔の事でもない、つい40年ほど前のことだ。民主化を求める市民に対し 戒厳軍は武力を行使し、150人以上が命を落としたという。いや、その全貌は明らかになっておらず、おそらくそれ以上の犠牲者がいるのかもしれない。
市民は国に守られているという前提は覆り、丸腰でもお構いなしに発砲される。発砲されることに理由や説明などもちろんなく、市民の権利など主張する間もなく、まさに無秩序に行われる。負傷者を救助しようとした一般市民へも銃口が向けられ、タクシー運転手が立ち上がった。この韓国、光州での出来事は、メディアでも情報操作され、光州へ入るには検問があり自由な行き来はできず、今、光州で何が起こっているのかなど、その他の地域の者が知るすべもない。むしろ、テレビから流れる虚偽の報道が事実として刷り込まれていき、その流される情報が真実となっていく。
無秩序
国は国民を守るもの。
警官は法の下にあり正義感をもって市民を守るもの。
テレビ報道は真実を伝えるもの。
誰にだって権利がありそれを侵害されてはならない。
我々には自由がある。
何も疑わず、これらは当然のこととして社会は成り立っていると思っていたが、
つい40年ほど前、隣国で起きた光州事件。
社会的秩序
社会総体において社会過程が一定の明確な調和的均衡を持っている状態のこと。(コトバンクより引用)
そんなことあるわけないと思いながらも
恐怖に襲われることがある。
例えば
店員と客の関係。互いに面識がなく相手が男性であれば、今ここで殴り掛かられても敵わない。相手の気分を害すると、殺されるかもしれない。車の購入をして印鑑迄押したのに、支払いがないと言われるかもしれない。女だからと、取り合ってもらえないかもしれない。
教師と生徒の関係。教師は教えることが当たり前だと思っていたが、急に授業を放り投げてしまうかもしれない。塾代を支払っているのに、ある日突然塾がなくなっているかもしれない。
警察官だと思って相談しても、個人情報を悪用されるかもしれない。助けてくれないかもしれない。相談したことさえ、もみ消されるかもしれない。
1人で外を歩いていると、暴徒に襲われて身ぐるみはがされるかもしれない。そして、皆見て見ぬふりで、誰一人味方はいないかもしれない。青信号で横断歩道を渡っていても車が突っ込んでくるかもしれない。
業者さんに仕事を依頼しても、約束の日に納品してもらえないかもしれない。電話を受けていないと言われるかもしれない。
そこには、何の保証もない。
警察はこういう役割、店員の役割はこう、赤信号は止まるものなどという前提で社会が成り立っているが、それはとても危うい関係性とも感じられる。目に見えない信用や信頼で成り立っており、それがいつ崩れるかも分からない。現に、光州ではそのようなことが起こった。
もちろん、光州事件でもタクシー運転手のように善意をもって行動できる者もいる。その善意を持った人々の力で、世間は光州の現実を知ることになった。
何かの災害や、暴動などが起こった際、社会秩序が崩れてしまう可能性は大きい。その時に、どう対処し、どう自分を保つことができるのか。コロナ禍で生活様式が変わる中、考えておきたい課題の一つとなった。
いや、少し考えすぎかもしれない・・・。