ケアマネの私とオフの私の日記

書くことで気持ちの整理をしていきたい。。

貧困ビジネス

「泥棒の顔なんて見たくない!警察には言ってある!帰れっ!!」

 

一人暮らしの90代女性。物盗られ妄想どころか、実際に何度も警察に通報したり、救急車要請するなど周囲を巻き込み、女性の主張は曖昧なため、方々から担当ケアマネに確認の連絡が来る。認知症だけでなく、精神疾患も感じられるが、身寄りのない女性を精神科受診に結び付けるには、本人の同意が必要であり、膠着状態。行政や病院に相談しても、結果ケアマネにバトンが回ってくる。当初はデイ職員がバッグを取った犯人で目星も付いていると言われていたが、今はケアマネが犯人だと思っておられる様子。訪問の度、人が変わったように罵声を浴びせられ、面会もならず、こちらも人格を否定されたようで辛くもあるが、仕事なのだから仕方がない。女性の生い立ちを思うと、仕方のないことだとも思う。

 

そんな訪問を繰り返していたある日、女性宅からの帰り道だった。道端の電柱に手書きで「アパート入居者募集。生活保護者大歓迎!」という張り紙を目にした。

生活保護者・・大歓迎?

黒いサインペンで力強く書かれたそのフレーズに、どこかしら違和感を覚えた。

 

女性の住む公営住宅がある地域は、地元ではいわゆる柄が悪い地域と言われており、一見道路が広く整備されているようだが、一つ路地を入ると、車も通れない小道が多く、庭も駐車場も外壁もなく、路上からニョッキっと家が生えており、隣との境はなく密集している。介護保険でレンタルされているであろう車いすなどが路地に放置され、板壁の空き家は倒壊しないようにロープで囲われている。道路に洗濯物が干されていたり、ごみか骨董品か見分けのつかないものが散乱しているなど、少し空気の違う地域である。

 

翌日、帰宅時の車内で報道番組が流れてきた。自立を阻害する貧困ビジネスの特集だった。社団法人かどこかが、生活困窮者に住宅を斡旋し、初期の食事や食器などの生活用品を提供、生活保護申請代行し、身分証や通帳などを預かるという。住宅扶助上限の家賃の物件に入居させ、身分証を取り上げられ、社会生活ができない。仮に就労し給与を得ることになっても、給与分の保護費が減額されるため、現在の家賃を自分で払わねばならない。アパートは大抵郊外にあり、都心部で就職できたとしても、そちらへの転居費用は保護課からの支給はない。などのことから、再スタートを切ることができず、生活保護から抜けだせないという内容だった。

 

社団法人は、郊外のアパートを生活保護受給者で満室にし、住宅扶助費上限の家賃と共益費を設定。高利回り物件として販売するとか。以前から入居したいた人の家賃の何倍という金額。家主からすれば、確実に家賃回収ができる確かに高利回り。

インタビューでは、近所の住人から、築何十年というアパートが満室になっていることを不思議に思い、尋ねられたことがあるとも話されていた。

 

それって。。

 

「アパート入居者募集。生活保護者大歓迎!」

 

あの張り紙も、そういうことだったのではないか?こんな地方にも貧困ビジネスがやってきていたとは。

 

番組の最後には、行政の人手不足が指摘されていた。保護課ケースワーカーが持つ件数は一人で100件強らしい。そんな人数を的確に審査するのは至難の業。行政も認識はしているようだが、手順を踏んで申請されれば、チェックは入らないのだろう。

 

立場が違えば、互いの言い分がある。緊急避難的には助かった生活困窮者、身分証を搾取する違法を犯し住居を斡旋し保護申請を肩代わりし、家主を見つける社団法人、高利回り目当てに購入する家主、お決まり通りに保護申請を受け付ける行政、生活困窮者からのSOSに力を貸した団体。不審なまなざしで見守る地域住民。

 

深い。闇は深い。深すぎる。

 

私を泥棒呼ばわりする女性も、今に至るまでに行政に相談もされている。もっと早い段階で精神科受診や施設入所につなげていれば、警察に何度も捜査してもらわなくても、救急車出動させなくても良かっただろうに。どれだけの税金を使っての対応だっただろう。女性が精神疾患に陥ったのは、生い立ちや孤独な環境、学習機会を奪われ、相談窓口に頼れなかったなど社会的な影響も大きい。

 

深い。闇は深い。深すぎる。

私一人では力が足りない。かといって、一緒に向き合ってくれる人はそういない。時が経ては、終焉が来るのだからと、立場上、各々のすることをし証拠を残し、ただ行く末を見守り、それを待つことになる。

 

いつの時代もそうなのかもしれない。

 

貧困も、孤独死も、不登校も、DVも、その他いろいろな課題は取り上げられるが、社会全体の仕組みを見直す必要を皆感じてはいるのだろうが、とてつもない労力や時間が必要で、うまくゆく保証もない。そうなれば、公共の福祉よりも、個々人を守ることで精一杯なのかもしれない。自助努力にゆだねられるということか。