「韓国発のあのかき氷を食べてみたい。」
娘のリクエストに答えて、出来るだけ人の少ない平日の朝一に、ちょっとした話題になっている店へ出かけた。夏休みはどこへも連れて行けないので、私なりのグルメツアーの一環。
エスカレーターを降りると、先客が1組。我々と似たような母娘連れだった。
「どうぞ、まだ注文決まりませんから。」
そうその母親に言われ、やけに高い位置にあるお洒落なカウンターで、お目当のかき氷を注文する。
「中学生以上の方は、1人一品注文して下さい。」
と、若くて可愛い店員さん。そうなんだ。私にとっては、かなり高額のかき氷なので、2人で一つ食べようと思っており、少々動揺して(いやかなり焦って)、急いでもう一品注文した。とっさのことで、「まだ、小学生です」とも言えず、せっかく来たのに「じゃ、結構です」とも言えず、自分の小ささを思い知る。
可愛い店員さんは、娘の何をもって中学生以上と認識したのだろうか?仮に私が「いえ、小学生です」と言ったとしたら、スルーできたのだろうか?
はたまた、娘は身分証など持ち合わせていないため、確認のしようもなく自己申告となる。私達大人は、免許証や保険証など持ち歩いており、大抵の場合、身分の証明はできる。それが、大人ってことか?
子供達は、身分証など持たずに学校に行くし、手ぶらで遊びにも行く。道端で、身分を尋ねられても証明できない。自分が何者であるのかを明らかにできない。
なんだか、心許ない。よく考えると、そんな状況で一人で通学させたり、遊びに行かせていたことが怖くなった。生活圏域内では、いつでも家に帰って来れるけれど。
となると、私も危うい。私は私だと認識して生活しているが、免許証など何もなければ私が何者であるのか明らかにできない。もしかすると、それくらいの方が生きやすいのかもしれない。何者でもなく、ただそこに存在する。そして何者にでもなり得る。
認知症の方は、このような感覚なのだろうか?自分が何者であるのか、ここがどこなのか分からなくなる不安。
記憶喪失の方は、このような感覚なのだろうか?だとしたら、とても不安だろう。
親子、職場、地域などの関係性も、何の裏付けもないまま、この人はこういう人だと各々認識し、危うい信頼関係で成り立っているようにも感じる。よく、指名手配犯が名前を変えて生活していたと聞くが、なるほど、そんな事もできそうな気がする。結婚した相手が、実は偽名で存在しない人だったなんてことも聞いたことがある。
頭の中でグルグルと妄想していると、ネットで見た通りのかき氷が運ばれてきた。いや、かき氷というより食べた感じはシャーベットだな。百聞は一見にしかず。食べて五感で感じることには敵わない。
「美味しいけど、もう一回食べたら良いかな」
と娘。ま、食べてみて確かめてみて良かったね。私も気になっていたし。
先程の母娘も、もしかすると私達同様に一つ注文してシェアしようと思われていたのかも。氷は水とはいえ、かなりのボリュームであったから。