看板も何もないオートロックのマンションだった。
マンションといっても、ビルのような作りでエントランスも奥まったところにあり、何度もマンション名を確認し、部屋番号を押した。日当たりの悪い無機質なコンクリート打ちっぱなしの通路を通り、3人乗れば定員オーバーであろうエレベーターで部屋に向かった。このビルの空気感が懐かしくもあり、ワクワク感を増強させた。
子育てのため住宅地に移り住み18年程。買い物はスーパーやショッピングモールに行くようになった。仕事と家と、たまに学校行事に行くくらいで行動範囲は限定され、見慣れた景色でお決まりのルーティンをこなす日々。そこでの生活が日常となり正義となる。定時にご飯を食べさせて、洗濯や部屋の片づけなど子供らの世話を中心にして生きる。子供らが楽しくしていることに喜びを感じ、それを支えることが生きる糧となっており、自分のことなど考える余裕もないし、考えることすら頭に思い浮かばなかった。仕事も変わらず、福祉業界の中で完結してしまい、異業種の方との接点などほとんどない。真面目にしようとすればするほど、凝り固まっていく。
この無機質なビルの少し湿っぽい空気を吸って、母親になる前の自分を思い出したのだった。
雑居ビルに行くのが好きだった。
怪しげな古着屋では外まで聞こえるほどの大音量でレコードをかけていたり、床に敷かれたブルーシートに雑貨を平置きし販売している雑貨屋では、仲良くなると店主のおじさんがメンバーズカードをその場でラミネートしてくれ、それをもらうのが嬉しかった。壁に糊で貼り付けたポスターがはがしきれず、その上にまたポスターが貼られているのも良い。ネット予約なんてない時代に、どうやって情報を得ていたのか流行りのサロンが入っているビルに行くのはワクワクした。少し湿度のあるひんやりとたビルの感じがたまらない。まるで文化祭のようだった。自由だった。
エレベーターの中で、知らないところへ行く心地よい緊張感を感じていた。
職場のヘルパーさんの娘さん繋がりで教えてもらったフェイシャルエステサロンは、自宅マンションでお一人でされており、SNSなどで宣伝をすることなく、口コミで紹介の方のみが訪れると伺った。
「老化っていうけど、1週間に1度でも1時間でも、自分のためにしっかり洗顔したりケアしてあげると、肌も変わってきますよ」
ダブル受験も終え、自分の時間ができると思ってはいたが、今までのルーテインから抜け出すことができず、何か変えたいと思ってフェイシャルエステをお願いした。エステはもとより、随分と視野が狭くなっていた自分に気づいた。自分の時間を満喫するべく、事態打開の糸口が見いだせたような気がした。