ケアマネの私とオフの私の日記

書くことで気持ちの整理をしていきたい。。

MIDNIGHT SWAN

テレビを見るとお正月を感じてしまうので、今年はネトフリにしてみよう。ドラマは一気見してしまうから、映画にしよう。洋画を字幕で観るの良いが、そこにリアリティを感じるこてはできず、ここ最近は邦画の方がしっくりくる。実体験に近いものを感じ、艶めかしさを覚えるから。

 

その日、何気なく選んだのは「MIDNIGHT SWAN」だった。

 

草彅剛が出演して話題になっていたっけ。何の予備知識もないまま再生ボタンを押すと、すぐにその世界観に引きずり込まれていった。新宿という町に暮らしたことも、ニューハーフショークラブで働いたこともないが、凪沙がぐっと私の中に侵食してくる感覚を覚えた。映画評論家のように、的確な表現はできないが、草彅剛の演技に圧倒されたというより、彼はもう凪沙としか認識ができなかった。話が進むにつれて、心がえぐられるような痛みを感じ、時折感じる母性に共感したりと映像で見ているだけなのに、自分も同じようにその瞬間を感じてしまう。

 

決して、綺麗ごとだけではない。後半は、そこまでリアルに表現するのか、人間の愚かな部分や汚い部分をさらけ出してしまってもよいのか?一果は、そんな現実を受け止められるのか?そんな現実、見せたくない。私が浜辺へ駆け寄っていき、今すぐに凪沙を病院に連れていきたい。まだ中学生の一果を、守るべき大人が必要なのに、もう観ていられない。ジリジリと心が痛かった。

 

一言でいうと衝撃的だった。

 

トランスジェンダー問題を取り上げていたのかもしれない。すぐに、映画に意味を求めてしまうが、監督が何を伝えたかったのかはさておき、観終わった後のこの感情を言葉に吐き出さねば苦しい。自分なりに何かしら結論を感想を述べなければ、消化できずに体の中に滞留し続ける気がしてならなかった。

 

凪沙もそうかもしれない。心は女性で、体は男性。なぜ私だけ?なぜ私たちだけ辛い思いをしなくてはならないの?きっと、とてもつらいことなんだろうと思う。

 

そもそも、性別ってなんだ?繁殖するために人間には男女が必要だろうが、それは別に性行為に限ったことではないと思う。すぐに行為に結び付けられ、興味本位の目を向けられる風潮があると思う。凪沙のように、子供を慈しむ心が沸きそれを母性として捉え、体も女性になりたいと願う。行為ありきで手術を受けるわけではない。行為以外の性の部分というか、体のみならず、心というプラトニックなものというか、性の不一致は決して気持ち悪いものではなく、おそらく男女で脳の構造は違うのだろうから、そこをすり合わせていくみたいな。いや、もしかすると男女と明確に分ける必要もないのかも。男女という前に、その人は大切な一人の人間なのだと思う。性別なんて大した問題じゃない、元気でいてくれればそれで充分。どうなんだろう?でもやはり、自分を周囲に認めてほしいのかな。私はこうですって表明することが大切なのかな。

 

人は誰一人として同じではない。皆一緒である必要もない。今、この時代にこの場所で出会えたことがとても素敵なことなんだと思う。自分も大した人間ではないが、凪沙や一果を抱きしめてあげたいと思った。いつも不機嫌なあの人や、自信なさげなあの人も、大丈夫だよって強く抱きしめてあげたい。そう思うことがある。実行すれば、私の方がただの不審者になるので心で思うだけにはしているが。

 

久しぶりに心がえぐられる映画に出会った。