ケアマネの私とオフの私の日記

書くことで気持ちの整理をしていきたい。。

ごめんね、樹木たち。。

猫の額ほどもない実家の一角に、びわの木やブーゲンビリア(育ちすぎてたくましい幹になっている)、ソテツなど他にも統一性のない樹木が植えられている。季節になるとびわが実り、紫の花が鮮やかではあるが、成長しすぎて屋根や電線にまでかぶさる勢いになり、手が付けられなくなっていた。

 

少し左麻痺の残る母は、もう手に負えないからと枝を切り進めていたが、彼らの成長に追いつくはずもない。私も、この先彼らを手入れする自信もなく、いつまで元気でいられるか分からないため、一念発起し樹木の伐採に取り掛かった。

 

とはいえ、そうたやすく引っこ抜けるものではない。まさに大地に根を張りびくともしない。とりあえず幹を切れば、枯れてしまうのではないかと考え、人通りの少ない早朝にナタを地面に近い幹めがけて打ち込んだ。切り倒すためには、それなりの道具があるのかもしれないが、手元にはナタとのこぎり、スコップしかないから仕方あるまい。

 

いつかテレビで見た山の木を切り倒す際、片方にくさび?を打ち込み、倒す方向を決めていたっけ。うろ覚えの知識を頼りに障害物のない方向に気が倒れるようにナタを打ち込む角度を調整し、高さ3メートルほどの数本の木を倒すことに成功した。割烹着にニット帽をかぶり、薄暗い早朝の住宅地で、一体私は何をしているのだろう?とおかしくもあったが、心は晴れなかった。

 

まるで遺体を解体するかのように(したことがないからあくまでイメージ)切り倒した幹をゴミ袋に入るサイズにノコギリで切った。無我夢中だった。

 

これら一連の作業を通して、生きているもの(木)を傷つけて、無理やり倒そうとする行為に罪悪感を感じていた。

 

ナタが打ち込まれるたびに、木の幹に残る水分を感じ、生命を感じた。まだ生きているのに、痛いのではなかろうか?痛い、心が痛い。なんてかわいそうなことをしているんだ私は。いつか自分も同じ目にあってしまうかもしれない。木だって生きているのに無理やりそれを奪うなんで、人間のエゴでしかない。もうここには二度と木は植えたくない。こんなかわいそうなこと、したくはない。育てることができないのなら、植える資格はない。それって、ペットと同じではないか?育てることができないなら飼う資格はない。あぁ、なんてこと。彼らも生きているのにその命を奪うなんて、なんてひどいことを。。。なんて罰当たりな。。。それなら、いっそのこと早く終わらせてあげよう。ごめん、ごめんね。

 

それから数日は彼らに対する罪悪感でいっぱいだった。

 

でも、まだ根っこが残っている。どうしましょう。

 

大地に張り巡らされた根っこを引っこ抜くことができず、根の周りの土を掘り起こすことにした。そうすれば、自然と水分が抜けて枯れてしまうかもしれない。楽になれるかも。。(なんだか宜しくない発想にも思えるが)

 

まだ実家の片隅に根っこたちが残っている。彼らを見るたびに、幹をナタで切りつけた際の幹のみずみずしさが思い出され、心がぎゅっと痛くなる。どこかに移植ができればよいのだが、そのすべを私は知らない。ごめん、ごめんね樹木たち。。