ケアマネの私とオフの私の日記

書くことで気持ちの整理をしていきたい。。

母の人生

自分のこともよく理解していないのに、他者のことを理解するなんてできっこない。人の気持ちは変わるものだし。思想も変化するだろうし。

 

母と話していて気づいた。

 

祖母が入院していた頃、見舞いに行った母は祖母が病室内のポータブルトイレに座り用を足すのを待っていた。

「まだ?」

「まだよ。あんたも歳を取ればわかるのよ」

それから数十年、祖母の言っていたことが良くわかる。今、自分も同じような体験をしているから。と母。

 

運転免許を返納し自由が利かなくなった母は、昔のように買い物やドライブに行きたいものだと思っていた。なぜなら、自分ならそうしたいから。仕事が忙しく、外に連れ出せない自分に罪悪感を感じていた。

 

しかし、母の返答は違った。

 

「家の近くの自分で行ける範囲の生活で十分。遠くまで買い物へ行きたいなんて思わないし、体が言うことをきかないから」

 

「じゃぁ、体が言うことをきいたら、やっぱり大きなショッピングモールにも買い物に行きたいと思う?」

 

「そう言っても、これ以上は良くならないからね。いいのよ。これで」

 

「仮にの話よ」

 

「そうね、元気だったら1人で行っているかもね。でも、動けないと分かっているから今の生活で十分なのよ」

 

私というフィルターを通して母の気持ちを想像していたことに気づく。私ならこうだから、きっと母もそうしたいはず。私が手伝えば買い物へ行けるのだから、きっと遠慮して言い出せないのかもしれない。たまには、おいしいものを食べに行きたいだろうし。なんて。

 

それは独りよがりであったのかもしれない。母の歳になって、母の健康状態になって、母の人生を振り返り、娘からの視点ではなく、母自身の居場所から考えれば、その言葉に少し共感することができた。私が母の歳になったら、娘に同じことを言うかもしれない。「いいのよ、それで」

 

母が歩んできた人生がある。私はその人生に追いつくことはできない。母は、経験してきたことだから、私や孫たち年少者の気持ちが分かるだろうし、助言や教訓を示すこともできる。私は、今の母の歳を経験したことがないから、何を望んでいるのか、どうありたいのか分からない。歳をとらないと分からない。歳をとっても分からないかもしれない。母の真意が分からず、先回りして、気持ちを汲むことができない。

 

母が歩んだ人生を私は同じようになぞり、無意識に追いかけているのだろうか。以前、母が言っていたように、明らかに更年期の不調を体感している。そういえば、昔母に言われていたっけなんて。気が付けば、私も娘に言ってしまったことがある。

 

「30年すれば、白魚のような手も一杯仕事をして、働く手になるのよ。私もこんなじゃなかったのに・・」

 

そんな私の苦悩も母にはお見通しなのかもしれない。