ケアマネの私とオフの私の日記

書くことで気持ちの整理をしていきたい。。

エンディングノート②

不思議なもので

エンディングノート購入以降

それにまつわる話に出会うことが増えた

というより

今まで意識せずに

スルーしていただけかもしれない

 

つい先日参加した研修会

 

住職さんが

お寺で開催する茶話会を利用し

人生の終焉について

気軽に話せる

相談できる「場」を作りたい

という講演

 

門徒の方以外にも地域住民が参加した

まだ30代半ばの医師を交えての

ある日の茶話会

 

余命宣告を受けた

60代男性の病院での出来事

昨日まで

そこにいた同室の患者さんが

息をひきとられた

病院の業務としては当たり前のことだが

たんたんとベッドメイキングされ

次の患者さんの受け入れ準備を行う

 

その光景に

まるで誰もいなかったかのように

まるで何事もなかったかのように

「処理」されていると感じ

「病院では死について語ってはいけない」と感じた

そんなお話

 

司会の住職さんは

若き医師へコメントを求める

すると

「確かに

 その通りだと思います。

 しかし

 死を語れないのは病院だけでしょうか?」

住職さんはその返答に

返す言葉がなかったという

 

 

仏教の話だったろうか

ある母親が

「私の子供を生き返らせてください」

と懇願する

すると

「町に行って

 庭先にある〇〇の実を持ってきなさい

 そうすれば

 生き返らせる薬を一緒に作れます

 ただし

 誰も死者が出たことのない家のものに限ります」

 

母親は

すぐに民家になっている実をみつけた

しかし

どの家も

死者が出たことのない家など一件もなかった

 

「死は特別なことではない

 生まれてきたものは

 必ずなくなっていく

 誰しもに訪れるものなのだ」

 

そう気づいた母親は

「もう薬は必要ありません」

と申し出た

と言う話

(正確ではないがそのような内容の話)

 

 

死は誰にでも必ず平等に訪れる

 

 

日本人の死因について

住職さんの話では

1位 悪性新生物

2位 心疾患

3位 老衰

脳血管疾患を抜き始めて老衰が3位となったそうだ

 

しかし

住職さんの解釈では

 

「生まれてきたことが死因の一番の原因です」

 

 

縁起でもない話

 

 

以前は自宅で最期を迎え

親戚や家族、子供たちが

その最期を見送るのが普通で

子供たちの「死」について学ぶ機会でもあった

 

今は

大家族自体が珍しく

自宅での療養、介護は家族も困難となり

医療機関や施設で最後の時を迎えることが多い

子供たちは「死」について学ぶ機会がない

大人たちでさえ「死」は遠いところの話

 

それは怖いものとして捉えられ

それについて語るのはタブー視される

 

ある意味

仕方のないことなのかもしれない

 

それだけ

時代は進化していき

今更

後戻りなんてできない

 

それは

出産に関しても同じで

以前は自宅出産がほとんどであったが

今では産婦人科に入院して出産する者がほとんど

私もそうだった

 

病気でもないのに

入院して出産する

 

病気でもないのに

入院して最期を迎える

 

出産については

産婆さん、助産師さんに手伝ってもらい

自宅出産を選択する者も

増えていると思う

 

最期の時についても

ACPやエンディングノートなど利用し

自分で自分の最期を選択する者も

増えつつあるのだろう

 

 

母はエンディングノートを開いただろうか・・

 

私は冷たいことをしたのだろうか・・

 

 

住職さんの講演を聞き

それで良かったのだ

と少しほっとした気持ちでもあった

 

最期の時について話すのは

決して良くないことでもない

人は生まれてきたのだから

なくなっていくのは当たり前の事

ならば

最期について考えてみるのも

当たり前の事だと

 

そう思っている