ケアマネの私とオフの私の日記

書くことで気持ちの整理をしていきたい。。

本能

又聞きの話である

 

災害を専門に研究されている

大学助教授の講話だった

 

津波について

 

避難場所に指定されていた学校は

それを信じた教師の判断で留まり

被害に遭われた

 

通常

公立学校の教師は数年単位で転勤があるため

その地域のことは

教師よりも住民の方が詳しいし

時に正しい判断を下すことができる

 

保護者の判断で

保護者自らが

子供たちを高台に避難させた学校は

被害を免れた

加えて

ある母親は避難の際に

自分の親のところへ行くか

子供たちのところへ行くかの選択を迫られた

 

子供たちは助かり

親は助からなかった

 

あるテレビ番組で

中学生がお年寄りの避難誘導をしている姿が報道される

コメンテーターは

心温まる美談として称える

 

もちろん素晴らしい行いだ

 

しかし

現実には

お年寄りを助けている間に

中学生も被害に遭うかもしれない

お年寄りを助けたがために

2つの命を失うかもしれない

ならば

未来のある中学生には

一目散に避難して

まず

自分の命を守ってほしい

他人を助けるのはそれからだ

 

というのが助教授の考えだ

 

きれいごとではなく

生き延びるには

未来ある子供たちから非難させるのが

本来人間にも備わっている本能だと思う

 

高齢者だから

障害者だから

弱者だから

緊急事態にはどう判断するだろうか?

 

どう判断しても

何らかの団体からは苦言を呈されるかもしれない

この助教授の主張をテレビで発信したら

バッシングを受けるかもしれない

 

でも

今の私は助教授同様

子供たちには生き延びてほしい

そう思う

 

そして

まず自分が生きていなければ

誰も助けることはできない

 

守るべきものができてから

自分以外に唯一子供たちが最優先になった

 

「幸せ」についても

同じようなことが言える気がする

 

まず自分が幸せでなければ

人を幸せにすることはできない

 

まず自分が楽しくなければ

人を楽しませることはできない

 

まず自分を大切にできなければ

人を大切にすることはできない

 

もちろん自分を愛していなければ

誰かを本当に愛することはできない

 

それは

独りよがりなわがままではなく

まず自分の足でしっかり立たなければ

人には優しくできないのではないか?

と今は思っている

 

生きていくには

綺麗ごとだけでは済まされないことも多いだろう

理性だけでは判断を誤り

時には

本能に従った方が上手くような気がする

 

何かを選択したときの理由なんて後付けで

意外と

人間も本能で動いているのかもしれない

 

そんな

おそらく私にも備わっているであろう本能を

少し意識しながら生きていくことができたら

なんだか

とてもワクワクする

 

感情を言語化するのは苦手で

何故そう思ったのかなんて

上手く表現できないけれど

それは

理由はなく本能でそう感じただけかもしれない

なんて

いい訳かな・・・