ケアマネの私とオフの私の日記

書くことで気持ちの整理をしていきたい。。

本人のいるところから

「本人のいるところから・・・」

 

4日×3か月かけた主任ケアマネ研修が終わった。ZOOM開催のため個室に一人缶詰め状態となり、パソコン画面に向かってやり取りするその様は、何かのバラエティ番組の企画のようでもあった。(一人なので感染症の不安はない)

 

ケアプラン作成に当たり、その場のサービス調整ではなく、本人に近づき本人を理解し、本人のいるところから支援していくために事例研究を繰り返す。

 

なぜその状況に陥っているのか?事例を時間軸に沿って構造化し言語化する。

 

ま、言っていることは何となく分かるし、グループでの事例研究を繰り返すうちに、本の核心に迫る感覚やそこに近づいた際の高揚感は覚えた。本人のベースはこうで、このような因果関係もあり、今この状態があり、こういう方向性で支援していけばよいのだろうなんて。

 

でも、ひとつひっかかることがある。

 

支援される本人の権利擁護はケアマネの役割であり、本人を中心に考えが始まるのだが、本人が望む暮らし、望む状態、望む環境を実現できたとしても、その周りに、それを不快に思う人がいるとしたら・・。

 

本人は良い状態で生活できたとしても、本人にかかわる誰かが我慢を強いられる状態になっていたら。

 

皆が皆、ベストな状態で過ごすことは難しい。人は絡み合って生きているのだから、互いに譲り合い、妥協点を探し、100%願いがかなわなくともある程度のところで良しとして納得して生きているようでもある。

 

一つの事例を掘り下げる事例研究の繰り返しの中で、あまりにも、本人にフォーカスしているような気がして、終盤にはなんだか気味悪ささえ覚えた。

 

普段の支援でもその感覚はある。

 

本人の望む暮らし。という決まり文句。

 

人はみな平等で自由であることは保証されているのだろうが、あまりにもその点が誇張されすぎて、なんでも意向がかなうと勘違いされている利用者さんにも多々出会ってきた。

 

過去の過ちは払拭され、介護保険の世界ではみな平等でしょ?みたいな。当然の権利なのだから、ケアマネさんちゃんとフルに支援してよねみたいな。

 

確かに一ケアマネが過去のことや経歴を判断して、支援を断ることなどできない。介護保険利用となった方々には、皆一様に制度にのっとった支援を提供する必要がある。

 

でも、釈然としない思いも残る。

 

みな平等なんていうけれど、決してそんなことはないと私は思っている。権利も保証されているのは確かだが、平等に権利があったとしてもすべての人が皆一様に平等、同じなんてありえないし、そうだとしたらなんだか気持ちの悪い社会だ。

 

平等ということのとらえ方も千差万別。同じような境遇でも人によって幸福度は異なる。そう考えると、やはり、その人のいるところから支援の方向性を考えるということは理にかなっているのか。

 

研修の中で「こんな夜更けにバナナかよ」の作者の話があった。

 

ネトフリでその映画が配信されていたことを思い出し、研修を終えた日の夜に観た。そこには「生きる」ということがリアルに表現され、かかわる周りのボランティアとの関係性からも、本人の世界観が迫ってきて、少しひっかかりの糸口が見えたような気がした。