satoimo's diary

人生も折り返し地点を過ぎた。自分を大切にするためには...

論文スタイル

どの居宅介護支援事業所も人手不足で、依頼ケースが殺到し支援が追い付かない状況が続いている。要介護者が在宅で介護サービスを利用するには、計画作成が必要だが今までに自己作成された方は一人しか存じない、大抵は居宅ケアマネへ依頼されることとなる。

サービスを受けたい人は増え、ケースも複雑化しているのに、受け手のケアマネが足りない・・。キャパオーバーはとうの昔に超えており、書類作成や家族との連絡、サービス調整に追われる。どうすれば、もっと効率よくこなせるのか。この忙しさは、単にケースが増えただけではなく、私個人の能力低下が原因ではなかろうか。

 

ケアプラン作成や、会議録作成時には文章力が必要。面談時には、相手の意向を引き出す質問力や、横道にそれてもそれとなく軌道修正する会話力も必要。会議の日程調整時には、スケジュール管理や調整力など、各場面でいわゆるマネジメント力が重要になる。

 

そして、私の最も苦手とする、「言語化」能力も重要だ。頭の中のことを整理して、要点をまとめて分かりやすく相手に伝えること、文章に書くことができれば、仕事の効率は格段に上がるはず。

 

言語化」について検索していくと、「論理的思考」に辿り着いた。漠然と対処するのではなく、筋道や仮説を立てて論理的に考えることができたなら、何を優先すべきかがはっきりし、専門職としても迷うことなく自信をもって仕事に取り組めるかも。

 

そして、ひとつの仮説に導かれる。

 

私は短期大学卒。講義の選択肢はほとんどなく資格取得に必要な科目が決められていた。卒業論文など書いた覚えはないし、それがどういうものか知らず、興味もなかった。

 

ある日、息子の大学生活の話の延長で、職場の四大卒の女性上司から卒業論文の話を聴くことになる。彼女の卒業論文のテーマと作成方法、その間の彼女の動向など、それは私の知らないことばかり、そのような世界には今まで触れることもなかった。いや、触れる機会はあっても気が付かなかったのかも。なるほど、道理で彼女は論理的思考を手に入れたのか・・(私の勝手な偏見ではあるがそう感じた)

 

その秘密は卒業論文の作成方法にあるのではないか?

 

テーマを決める。仮説を立てる。それを立証するために調査方法を考え、被験者を募りアンケートを配布。その回答をデータ化し、考察する。みたいな。なぜその調査方法を選択したのか?なぜそれらの被験者を抽出したのか、すべてにおいて裏付けや根拠を持つことが必要とか。その流れは、まさに論理的思考につながるのではなかろうか?一つ、疑問に思うこともある。仮説を立てる段階である程度の見立てが必要だろう。見立てるにはそのテーマについてある程度の知識が必要なのでは。仮説が立てられなければ、立証もできないということか。ケアプラン作成時にも、根拠を!と保険者から詰め寄られる。この卒業論文のプロセスが習得できれば、ケアマネ業務の効率化につながるかもしれない。(私の勝手な推測ではある。いや、仮説ともいえるか)

 

もう一つ気づいたことがある。よくテレビ番組で見識者がデータをもとに解説する場面があるが、それは、例の論文的なもの、どなたかが研究してまとめたデータや考察的なものを根拠に解説されているということ?

 

大学院で学びなおすと聞くが、それは高校生までのような勉強とは異なり、自分でテーマを決め、それを論文で研究していくということ?

 

世の中は

そういう方々の研究=「論文スタイル(そう命名したい)」

で進化しているということ?

 

丸暗記で学生時代を過ごしてきた私には衝撃だった。答えがあるものを覚えるのではなく、自分で課題を見つけて研究していく「論文スタイル」

 

そんな方法があるなんて、早く知りたかった。もっと早く知っていたらもっと生きやすかったかもしれない。論文スタイルを身に着けるべく図書館でそれっぽい本をたくさん借りたのだが。

 

12月に入り、勤務先の法人で毎年恒例の年末もちつきをするので、手伝ってねと声をかけられた。正直、季節のイベントは胸が高鳴る。だが、周囲には悟られないようさらっと「はい」とだけ返答するのが常であったが、今回は、毎日の事務作業に辟易としており、もちつきのワクワクに打ち勝てず、「よかったら、もちつき大会のポスターを作ってもいいですか?事前にお知らせしておけば、なんか楽しみじゃないです?」と、頼まれてもいないが、告知ポスターを作製した。無料画像もちつきで検索しながらのポスター作製作業はとてもワクワクした。この時、私の頭はおそらく右脳優位になっており、論理的思考のかけらもなく、感性だけで動いていたと思う。この位置にこの画像を貼り付けた根拠、この文字にこの書体を選択した根拠など考えることもなく、勝手に手が動くと思っていたが、こうして文章にしてみると、直感的にレイアウトしたことも、根拠があったのかもしれない。この位置にこの画像を貼り付けると、目に留まりやすいからなど後付けでいくらでも説明できるのだから。

 

ただ何となく選択してきた人生。子育てと仕事に追われて、自分は二の次になり、なぜなのかと自問自答する余裕もなかったのは確か。「論文スタイル」から波及して、人生の後半は少し生きやすくなりそうだ。自分をがんじがらめにしていたのは自分だったのだから。