satoimo's diary

人生も折り返し地点を過ぎた。自分を大切にするためには...

介護脱毛

”介護脱毛”というワードを目にする機会が増えた気がする。

 

私が気にし過ぎでそう感じているだけかもしれないが、興味はある。その賛否両論は別として、少し考えさせられることがあった。

 

入院先の突然の休床に伴い、転院か施設入所か自宅退院を数日中に迫られている101歳の女性の居宅ケアマネを担当させていただいた際のことだった。

 

彼女の意向は

「私が家に帰っても、娘に世話をしてもらわなければならず、娘には、そんな迷惑をかけたくない。だから、ずっと入院していたい。」

というものだっった。

 

今の私からはどう考えても、入院中の生活が快適とは思えない。1日中、天井を見つめて食事のときのみ起こされる。膀胱留置カテーテルをしており、排せつはじめ身の回りの支援が必要な状況。週2回の入浴以外、病室を出ることはない。

 

また、彼女は認知機能は保持されており、多少の難聴はあるが、しっかりと意思表示でき、もちろん会話も成立する。判断力もある。

 

娘さんも後期高齢者となり、彼女の入院後は自宅で一人暮らし。確かに要介護認定を

受け寝たきりの彼女の世話は現実的ではない。

 

彼女は、施設入所を希望され、入所迄の間はショートステイを利用されることになった。ショートステイ先では、膀胱留置カテーテルを外して生活でき、食事は車いすを介助してもらい食堂で食べることができた。私から見ると、入院時より自由度や活動性が増したのは確かだが、食事以外の時間はやはり部屋で天井を眺められている姿に、彼女の本心を聞かずにはいられなくなる。

 

早期に施設入所の順番が回ってきた、入所前日。彼女の部屋を尋ねる。

 

「明日、移ると聞きました。娘には下の世話なんてさせたくないですから、入所ができて良かったです。ただ、今の生活と何か変わることがあるのかだけが気がかりです」

 

入所先の生活などについて丁寧にご案内すると、安心されたご様子で、いつものように今までの彼女の半生について語ってくださった。

やはり、娘さんに世話をさせたくないとの思いに変化はないようだった。

 

ただ、彼女の顔は、そう悲しそうでもなかった。

 

今まで、ボランティア活動や世界旅行、趣味の裁縫や町内会への参加、民生員活動など様々な経験を積み重ねられており、それらを”思い出”と表現しては、少々軽々しいかもしれないが、それらの”経験”が、彼女の身体を形作り、心の栄養となり、まだ彼女の中にあり続ける幸福感、満足感に満ちているように感じた。十分に生きてきた、やりたいことは全てやってきた充足感があるため、今この現状を受け止め、流れに身を任せることができるのではないか。

 

彼女の半分も生きていない私には、分かり得ない、人生の境地。

 

思えば、彼女の他にも、今までやりたいことをやり遂げ、幸福感に満ちた人生を送られてきた方々は、分からないことが増えて不安になっても、体が思うように動かなくなっても、どこか幸福そうにされているように感じる。

 

彼女らと同じスピードで私も歳を重ねていく。彼女らの姿から勇気づけられたり、反省したり、今の自分の在り方を問うてみたり。やりたいことは臆することなく挑戦し、後悔なんてしないよう、もう十分に好きなことはやってきた、私は幸せよとほほ笑むことができるよう1日1日を大切に生きていきたい。

 

そして、彼女と同様に私も娘に下の世話や介護を担わせたくはないと思っている。人様に排泄介助をお願いするのも気が引けるが、仕事としてお願いしたいと思っている。そうなると、やはり介護脱毛を意識してしまう。

 

多くの方が口にするように、介護が必要になる前に・・・との思いもあるが、今後のことは、神のみぞ知る。